「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見てきた。
割と劇場は若い子やカップルが中心。Twitterで見るような覚悟を決めたオタクはあまり見かけない。まあイオンだしな。
・・・と思ったら、上映直前に、「フン、フン、フン♪」とEM20の鼻歌を歌いながら参上するオタクおじさんが隣に!!
これだよ!これ!
しかも、予告が終わったら「ンハ~~~~!!」と深くため息!
でも始まったのは映画泥棒タイム。悲しい。 (でも映画泥棒タイムが終わったら改めて「ンハ~~~~!!」ってやってたw)
そしてクライマックスにかかると、グスッグスッ・・・とすすり声。音の出どころはどう見てもそのオタク。
いいね!!
最初の鼻歌のテンションどこ行ったんだよ、って突っ込みたくなるけど、令和になってこんなステレオタイプなアニメオタク遺産を間近で見ることが出来るなんて!
ありがとうエヴァンゲリオン!
ちなみに、よく分かってなかったけど、一連の作品群は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」と称する(エヴァ公式サイトより)ようで、完結編が「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(読めない)」というタイトルだそうな。なので、「シン・エヴァ」を見た、といえば4作目を見た、という意味合いになる。実質「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を通しで見た、ということでもあるんだが。新劇とかシン・エヴァとか、その辺もややこしい。
あと、劇場版シリーズ物ビジネスは間隔空きすぎて嫌いなので、今回のシン・エヴァ公開に合わせて一気に新劇を見た。ので、待たされた感は一切ない(ガルパンも終わるまで見る気なし)。第一パチンコ勢が主になってからエヴァからは離れていたし、エヴァにそこまで思い入れもない。新劇も日テレ金ロー版だしね。深夜再放送世代のライト層のオタクの感想と思って読んでもらえれば。
さて、見てきた感想と考察。
- 陰キャゲンドウと元・陰キャシンジの対決の話だった
- 旧作の続きなのかパラレルワールドなのか
- 大団円なのか
- 何故マリなんだ?
- マリとは何者なのか
- 急浮上する「マリ=安野モヨコ(庵野の奥さん)」説
- 何故カヲルくんとレイをくっつけた?
- アスカを何故オタクメガネとくっつけた?
- アスカのクローン設定
- エヴァの呪縛の意味
- 陰キャゲンドウとシンジの対決シーン
- 旧作と比べてテンポが早い
- ゲンドウと冬月先生の声が流石に老いてて悲しくなった。
- 冬月先生がジャイアントロボの諸葛孔明みたいだった。
- グレンラガンみを感じた
- 芳垣さん参加してた
- 総論
陰キャゲンドウと元・陰キャシンジの対決の話だった
とりあえず、ゲンドウに乗っかっとけばユイくんと一緒になれる、っていう冬月先生が普通にキモい。ゲンドウラスボスエンドはベタ過ぎない??って思ったけど、それでもゲンドウの弱い内面を包み隠さず描いたのは良かったな~って思った。ゲンドウ・ファイナルVer.はちょっとドムに似てた。イラスト描きたいけど思いっきりネタバレになっちゃう。
旧作の続きなのかパラレルワールドなのか
カオルくんの「今度は~」発言とかカオルくんの寝床がいっぱい並んでた描写からして、旧作の続きでもありパラレルワールドなんだろう。ハイスクール!奇面組とフラッシュ!奇面組みたいな関係。漫画版もオチが違うが、あれも繋がってはいるパラレルワールドと据えられる訳だから、そういう意味だと過去のよく分からんエヴァ作品群もまとめて成仏させた感はある。切り捨てなかったのは見事といえば見事。
大団円なのか
この辺、オタクがネタバレ控えるって言いながら「庵野ありがとう~」とか言っちゃってたんで、お察しだったのがアレだったけど・・・。まあ、大団円は大団円だよね。爆弾ぶちまけてきたらもっとTwitter荒れてた訳で。
そういう意味だと、大団円に持っていくために今回の基本軸は「登場人物をハッピーエンドに導く」なんだろうなあ、と思った。「さあ!エヴァを終わらせるよ~!」という意味合いで。観客ぶん殴って店じまいしたのが旧作、そろそろ店頭に立ち続けるのが厳しくなってきたんでこの辺でと言いながら最終日に超行列が出来て万歳三唱しながら店を閉じるのが新劇。
旧作の登場人物が、最後生きる死ぬは別にして、無念なまま終わるシーン・・・が皆無だったのはその前提があったからだと思う。しかも食パン登校みたいなオタクでさえ「気持ち悪い・・・」って思うような投げっぱなしハッピーエンドじゃなくて、オタクが喜びそうな「ザ・ハッピーエンド」。
トウジなんて委員長と結ばれてる、というか、そもそも生きてるし。あのワイシャツ演出なんだったんだよ(そもそも中古のワイシャツを支給すんな)。カヲルくんも最後シンジに救われてるし、なんだかんだ陰キャゲンドウもシンジに救われた訳だし、冬月先生だってやり遂げたぜ!って状態で昇天してるし(死ぬ前に若者と将棋もできて大満足)。 加持くんは特攻死だけど自ら将来のために望んだ感じだし(スレッガー加持)、ミサトさんも3作目まではクソの塊だったけど、最後は子供を想う良い奴扱い(今までのシンジへの仕打ち、俺は許さねーぞ)で無事加持くんのところへ昇天。リツ子もヴィレに居た時点でゲンドウと決別してたみたいだし、あんま男に興味なさそうだけど母性本能はありそうだからシングルマザーとしてハッピーエンド。
何故マリなんだ?
「今まで何してたんだ?」っていう麻生太郎の画像が脳裏に浮かぶ。それはさておき・・・何故、最後の最後でシンジに充てがわれた(表現が酷い)のがマリなんだろう?
正直ポッと出のキャラがアスカとレイを押しのけて、ってのは納得できなかったなあ。マリの素性も描かれてない訳で。思い入れが生まれるような描写もないし。 緊張感無くすような歌要らんし、大体、「~にゃ」って初登場の2009年頃に流行ってた口調か?寒いんだにゃ。
アスカ好きとしては、アスカを無理やりオタクメガネに充てがってハッピーエンド扱いにしたのは許せない。 オタクメガネ良いやつになってたけどさ!アスカ!幸せになってくれ!! レイも、最後救われた描写はあったけど、なんでラストシーンでシンジでなくカヲルとくっついてんだよ!みたいな。
他が満点ハッピーエンドだったのに、この二人だけ救われたは救われたけど主人公級としては微妙な終わり方だったような。そう考えると、なんか、レイとアスカって旧作の象徴として扱われていた?「まあ~幸せにはするはするけど、お前ら今作の主役じゃないから」って感じで。
代わりに、新劇の象徴としてマリが据えられていた印象はあった。だって、シン・エヴァで後半のエヴァシリーズを総集編的に「ありがとう~」って統括してたのマリだし。
結局マリ、てめえは誰なんだ。
マリとは何者なのか
シン・エヴァの終盤の感じからして、マリは冬月先生の研究室にいたメンバーなんだろう。パラレルワールドではあるが、漫画版にも冬月研究室のメンバーとして出てた、らしい(そういえば出てたような・・・うっすらとしか覚えてない)。
ということは、ゲンドウと旧知なのか。だからゲンドウくんって呼んでたのかも。
シンジやアスカが少年・少女期の姿のまま成長しないのは「エヴァの呪縛」(byアスカ)によるものらしい。よく分からんが(作中でも解説は無かった)。マリが老いてないのもエヴァの呪縛ということなんだろうか。
急浮上する「マリ=安野モヨコ(庵野の奥さん)」説
鑑賞後、知人が会話の中で「見てて、マリって安野モヨコのことかなと思った」と突然言い出す。
「?!どうしてそんな感想にたどり着いた?!ネットの考察??」
「いや、ポッと出のヒロインが全部持ってくって、庵野の近年の変化を考えたら奥さんの登場ぐらいしかないし。」
マジか・・・確かにTwitter界隈をちょいちょいつまみ見ると「庵野と安野モヨコの話」「お前らもエヴァ卒業して俺みたいに幸せになれよというメッセージを込めた作品」というのが主流のよう。
それどころか、「最後のシンジって、あれシンジでも、若いゲンドウでもなくて、庵野そのものだよな。」という感想まで!!確かに声が緒方恵美さんじゃなくて神木隆之介だったけど!!
うおーん!なんでオタクどもそんなに考察できるんだよ。まだ公開1週間だぞ!! (余談だけど、その他の感想や考察を見ようと思ったけど、ナディア論とか、まどマギ論とか、SF論とか、僕とアニメとか長文語り始めてるオタクが多くて、感想読むのダルくなってそれ以上はあんまり読んでいない)
で、「マリ=安野モヨコ説」に立っていろいろ考えてみる。なお敬称略。
旧作の象徴たるアスカとレイを押しのけてマリが全面に出る
お前らそろそろアニメから卒業しろよ、結婚は良いものだぞ。今の奥さん最高!
マリの鼻歌
普段から安野モヨコが歌ってるんやろなあ・・・。てことは安野モヨコも「にゃ」って言ってんのか?
「ゲンドウくん」呼ばわり
安野モヨコは自身のエッセイ作「監督不行届」で庵野のことを「カントクくん」と呼んでいる。うーん・・・まんまやんけ・・・。と、いうことはゲンドウもまた庵野自身ということなんだろう。「碇ユイ」(=空想上の理想の妻、ヒロイン)を追い続けて暴走しちゃった、昔の自分、ということか。
となるとシンジは・・・
ゲンドウが昔の庵野、ということなら、シンジは今の庵野自身ということか。大人(制作上層部)たちに振り回され、「逃げちゃ駄目だ・・・」と仕事に向かいメンタル崩壊、ついでに大人も巻き込む・・・ってやったのが旧作(庵野は35歳でエヴァ監督。旧劇あたりでメンタル崩壊)。「ちゃんと昔の自分自身に向き合って受け止めなきゃね。周囲も巻き込んで悪かったね。ケジメはつけるからね。でもあなた達大人達と自分は別ですから。自分の尻拭いは自分で尻拭いしてね」ってやったのが今作、ということ・・・か?ということは、加持くんとミサトさんの最期が自死なのは当てつけか!?
最後のシンジもどきは・・・
これも庵野か。すなわち、昔の自分(ゲンドウ)と今作を通しての自分(シンジ)を昇天させて、転生して現れたのが今の庵野。そしてマリ(=安野モヨコ)とラブラブ。神木隆之介起用は謎。RADWIMPSが流れる世界観に行きたかったんだろうか。
なんちゃらチョーカーを外す演出の意味
最後にマリがシンジもどきからDSSチョーカーを外す。そもそもなんでDSSチョーカーつけてんの?終盤付けてなかったし、脈絡なさすぎ・・・ではあるのだが、庵野が最近開放された呪縛ってなんだろうって思うと・・・それってエヴァQの後に発症したと言われてる「鬱」か。つまりDSSチョーカー=エヴァに関わり続けてきたことで、鬱が爆発するリスクが肥大する、ってことを暗喩した演出ではないか。(ちなみにこれを思いついたの、鑑賞後の翌朝、目覚めてすぐだった。考察オタクの行動まんま) それをマリが外す・・・すなわち、安野モヨコが庵野から鬱から抜け出す手助けをしてくれた、ということなんじゃないか。
何故最後に二人は駅から外へ?しかも二人以外は実写演出。
実写の世界=現実世界ってことだと思うのよね。また、駅って、一般的に創作の世界(歌とかも含む)では長い旅の始発駅や終点をイメージさせるケースが多い。エヴァという長い旅路を終えて、その終着駅でようやく鬱から開放されて、「これからは大好きな奥さんと現実世界を謳歌します!お前らもいい加減エヴァ卒業して現実見ろよ!」っていうメッセージ。うーん、有り得る・・・。というか、この駅(宇部新川)も庵野の地元だしw。
やってること、マイルドにはなってるけど本質は旧劇と変わらねえじゃねえか!
ちなみに宇部新川は2009年に乗り鉄で訪問済み。流石に駅外観以外は撮ってねえわ。
何故カヲルくんとレイをくっつけた?
(ここはかったるいので、読み飛ばして構いません) そういや人類補完計画とか死海文書って結局なんだったんだっけ・・・と思って諸々考察を見ていたんだけど、今の主流の考え方って、「第一始祖民族が完全単一生命体の使徒を白い月に乗せて地球に移住させようとしてた」「アダムはそれの監督者」「うっかり黒い月も送り込んじゃった。これの監督者はリリス」「結局、使徒は眠りにつき、黒い月がジオフロントになって、リリスをもとにリリン(人類)が生まれた」「死海文書は元々の第一始祖民族の計画書」「それを発見したゼーレが不完全な人類を完全単一生命体に昇華させてハッピーエンドしようぜって動き出した」・・・ってのらしい(諸説あります)。
新劇だと、アダムがアダムスっていう表現になってるそう。エヴァ13号機(シンジとカヲルくんの二人で搭乗してるやつ)使ってリリスの槍をぶっこ抜き(ネットランナー)にいくシーンで、カヲルくん自身は自分を第1使徒って認識してたけど蓋を開けてみたら13番目の使徒扱いにされちゃったらしい。よく分からんけど、どうやらエヴァ13号機はアダムスの生き残りをベースにしてるらしいので、アダムスが被ったら後から来たほうが使徒扱いされちゃうみたいなローカルルールでもあったんだろうか。で、第13使徒となったカヲルくんとリリスが接触してフォースインパクト!ってなるとこだったんだけど、直前でカヲルくんがDSSチョーカー発動・自害して発動を食い止めた、そうな。(この辺、見ててもよくわからなかったし、今でもよく分からん)
旧作だとカヲルくんはアダムではなく、一方で、綾波レイ(の魂)はリリス、らしい(そうだったの?)。新劇だと綾波レイの魂がリリス設定は無く、カオルくんは元・第1使徒でアダムスなのかどうかは不明。 (ここまで)
よく分からん・・・。アダムスとリリスをくっつけた、っていう話なら一番しっくり来るんだけどそういう訳でもなさそうだし・・・。でもまあ、カヲルくんと綾波は、アダムとリリスに深い関係性があるってことは確か。なので、「エヴァに関する基本設定の中で、一番人(?)生を弄ばれた被害者」同士を贖罪みたいな感じでくっつけた、とかそんなとこだったりして。
それともシンジとの破局路線になっている以上、余り物同士でカップル作って幸せにしておけばオタクも満足だろ、ってのもあったのかな?カヲルオタクも綾波オタクも「まあ相手が綾波クラスなら・・・」「まあ相手がカヲルクラスなら・・・」ってのはありそうだし。
本質は、カヲルオタクと綾波オタクの成仏、行き場を失った心の補完、だったのかもしれない。
アスカを何故オタクメガネとくっつけた?
どうして・・・(現場猫)。アスカは主役級の中で一番新劇での扱いが低すぎる印象。あと新劇のアスカは性格微妙に悪いよね。綾波に並んで旧作の象徴、かつ「昔シンジのことが好きだった」、けれども最終的に「そこいらのオタクと結ばれる」という流れ。うーん、元々クソ恵まれてない生い立ちなので、極めて現実的な幸せを得られたという意味だとハッピーエンドなのかもしれないけど。
今まで庵野のお気に入りだったけど、安野モヨコがもう居るから、幸せになってねバイバイ、とかそんな感じ?
アスカだけ式波って名前変えられたのは、パラレルワールドにしても違和感あって、このアスカは旧作のアスカとは別もんだから文句つけんなよ、っていう布石にも思えたり。
アスカのクローン設定
ここが割とミステリー(微熱からMystery)。式波タイプとは?なんでクローン人間にしたんだろう。孤独設定は残ってるけど印象的だった母親との関係性もなくなってるし。ちなみに相当に語られつくされているのかもしれないが、まだ全然調べていない。加持さんへの求愛設定も無くなってるね。
ちなみに名前の元ネタって「あやなみ」型護衛艦の「しきなみ」から、らしい。あやなみ型ってまた・・・。綾波をベースにしたユーロ生まれのクローンってのもあり得るのかな。それとも旧劇のラストの「気持ち悪い」アスカさんが元になってるのか。
ワンダースワンは庵野の趣味か?だとしたら、アスカも庵野なのか?昔の陰キャな自分を肯定していた天才肌だけど量産型オタクだった自分自身?そんな過去の自分との決別?そんな過去の自分は、同じく大人として生活してる元オタクのお前らの心に居るから、みたいな?? シンジよりも先に大人びてイケイケドンドンで突き進むアスカ。それを色々とサポートしてくれるマリ。アスカが新劇制作中の庵野なら、やっぱりマリは安野モヨコじゃん。
エヴァの呪縛の意味
とりあえず、シンジとアスカも庵野だとしよう。であれば、大人になれないエヴァの呪縛、ってそれそのまんまやんけ。すなわち、エヴァに捕らわれていて大人になりきれませんって事かい。
じゃあマリが安野モヨコだとしたら、エヴァの呪縛にかかってたのはなんでだろう。庵野なりに、エヴァに関わらせてしまったことで子供っぽい自分のレベルにずっと付き合わせてしまった、とかそんなことなんだろうか。
陰キャゲンドウとシンジの対決シーン
あえての舞台袖ネタ、特撮ネタ。客観的な作り手の立場での映像にすることで「エヴァからの卒業」のメッセージを強く感じた。実写映画でよくある、エンディングを迎えた直後に「はいカットー!お疲れさまでしたー!」でエンドロールとともに出演者やスタッフ映像が流れるアレに似ている。岡崎体育の「MusicVideo」でも似たようなネタがあった。あと特撮要素やっぱり入れたかったんだね、という気持ち。
この辺、最近エヴァ見始めた子と、オタクおじさんおばさんとの捉え方ってぜんぜん違うと思うんだが、どうなんだろう。個人的には感慨深いと思ってしまったが、若い子からしたら「なんだこれw」じゃないのかねえ。まあ俺も感慨深さとともに「なんだこれw」ではあったんだが。
旧作と比べてテンポが早い
旧作、特にTV版は静と動がハッキリしていて、すげえ演出だと思った。これは割と近年見返しても「こらハマるわ・・・」と思ったぐらい。これを当時の深夜に見れたのはラッキーだったと思う(今の深夜はにぎやかだけど、当時の深夜は静寂そのものだった)。 新劇はエンタメとして完成されていてテンポが良い。テンポが良いが、旧作のようなインパクトは無かった。傑作だとは思うけど、もしエヴァという冠のない新作アニメーションだったら、果たして旧作のように社会現象にまで至ってたんだろうか。人生を賭する若者が生まれていたんだろうか。
ゲンドウと冬月先生の声が流石に老いてて悲しくなった。
でもある意味、ギリギリ間に合ってよかった感もある。この二人に限らず、過去作のキャストが、当時そのままのハリとは言わんけど、雰囲気そのままで声を当ててくれたのは素晴らしい。新劇の最大の評価ポイントかもしれない。
冬月先生がジャイアントロボの諸葛孔明みたいだった。
俯瞰するシーンね。
グレンラガンみを感じた
Qからシン・エヴァの中盤ぐらいまでは、エヴァというより、とてもグレンラガンみを感じた。というか末期ガイナみと言うか。ミサトさんとか終盤のシモンみたいになってガイナ立ちもしてたし。すしおさんの色も結構強かった印象。旧作のエヴァじゃこのノリは受けただろうけど、ある意味許されなかったと思う。というかこれ入れてたら逆にここまで社会現象にならなかったのでは。若い子の評価が一番高いポイントなんだろうな~と思ったり。逆に旧世代のオタクはアニメーションとしては褒めるけど新劇の評価ポイントで真っ先にはここを上げないと思う。 あえて、この展開を入れたのは、やっぱりエヴァとの決別、後はガイナの後輩世代に託す、という意味合いだったのかな、とも感じた。
芳垣さん参加してた
嬉しい!どのシーンかわからんけど!ササユリも参加してた。DR MOVIEも最近は評判の良いアニメ映画でよく見る。知ってる名前を見るのは嬉しいが、スタッフロールの名前を見てキャッキャしてるのはやっぱオタクだよなあ・・・。
総論
結局の所、旧劇と同じ庵野からオタクへの「オタクいい加減おとなになれよ」動画(しかも奥さんとの石破ラブラブ天驚拳)だった訳だけど、古参視聴者も「う~ん、まあ、良かったわ!」みたいなノリで大半が成仏した、って意味では、ものすごーく緻密に作られた作品だったんだなあとは感じた。
キッチリ考察要素も用意されているあたりがニクイ。むしろラストは柳沢慎吾ばりの「良い夢見ろよ!」(親指を立てながら)ぐらいの熱いメッセージを感じた。受け取った古参兵も、多分鼻の下を人差し指でこすりながら「へへ・・・庵野、幸せになりやがって。」ってやってると思う。
ただ、上でも書いたけど「面白かった~」って言ってる若い子の捉え方って絶対違うと思ってて、むしろその辺どうなんだろうな、って気にはなる。カッコよかった、キャラクターが可愛かった、アニメーションが凄かった、って淡白な感想じゃなくて、「なんかすげえアニメだった」「なんなんだよこれ・・・」って大多数が感じてたのが旧作だったので(今は名作と呼ばれるクオリティの高いアニメがガンガン出てる時代だから致し方ないってのもあるだろうけど)。あ、でも今の中心を成しているパチンコ世代はカッコよかった、キャラクターが可愛かったが主流だったような・・・。
一つだけ残念だったなあ、と思うのはやっぱり残酷な天使のテーゼなのよね。いや、魂のルフランでも良いんだが。(ちなみに私は「心よ原始に戻れ」派)。 そこまで宇多田に思い入れはない(笑う犬の生活のEDだったなあ、ぐらい)ので、エヴァの功労者たる高橋洋子さんの歌がラストで流れてきたら、色々と高ぶっただろうなあとは思う。旧作との決別がテーマみたいなもんだから、無いんだろうけどさ。アニソン好きとしては、ね。