AIによる記事自動生成ブログ四三式

このブログは天才チンパンジー「アイ(AI)ちゃん」が、言語訓練のために作成しているものです。

朝霞駐屯地 振武臺記念館を見学してきた

朝霞駐屯地内にある振武臺記念館を見学してきた。

f:id:type43:20220411120706j:plain

見学自体はそこまでハードルは高くなく、りっくんランド(広報センター)で不定期に見学ツアーを企画している。

振武臺記念館は元々は陸軍士官学校の後続専用宿舎。最初から朝霞にあった訳ではなく、戦後に神奈川の座間から移設されたもの。門柱は朝霞にあった陸軍予科士官学校のものが移設されている。

朝霞の名前の由来やら、朝霞が交通の要所となった歴史などがわかりやすくまとめられており、郷土史の観点からもなかなか興味深い。

展示品メモ

館内撮影禁止なので、ある意味展示の見学に集中できるw ここの主要な展示物についてはいろんなサイトで語られてるので、あまり語られてなさそうな、自分なりに興味を持ったポイントをいくつか。

発掘された菊の御紋と予科士官学校の看板(扁額)

2Fに展示。割とメジャーなものではあるが。終戦時に米軍に辱めを受けないように菊の御紋と看板を地中に埋めたもの。看板は2分割されているが、それは良いのか?とは思っちゃったり。

疎開時の寄せ書き

2Fに展示。大戦中、陸軍士官学校疎開。(調べてみたら1945年6月、松本大本営に合わせて長野の望月学校へ移転したらしい)。その際の士官学校生による寄せ書き。この手の史料には珍しく、感情がむき出しになっていて心揺さぶられる。意味は不明だが「大馬鹿野郎」とか、トルーマンをバカにしてたりとか。記入者がそれぞれの地元名を明記しているのも印象的。地元を代表してきていたにも関わらず、という現れなんだろうか。

玉音放送直後の血判状

疎開時の寄せ書きの横に展示。こちらもかなり感情がむき出しになっていて、その場面がどういう空気感だったのかを考えさせられる。士官学校生のその後の進路はバラバラだったそうで、警察予備隊に行く人間もいれば、民間人となった人間もいたそうな。

予科士官学校ジオラマ

予科士官学校に限らず、朝霞駐屯地にしても、254号沿いの門ではなく、正門は大泉側だということを初めて知るw 何故254号(川越街道)側が正門じゃないのだろうか、と聞いたら、「はっきりしたことは分かっていない。」とのこと。たぶん~みたいな話で昭和天皇行幸も見据えて予科士官学校の主要設備を東京都内に配置した結果じゃないかとも。天下の東京の歴史の割には、意外に研究が進んでないってのは微妙に驚き。ちょっと色々と見解を調べてみたい気にはなった。

陸軍士官の集合写真

1Fの乃木将軍の掛け軸のある部屋に、展示。練兵場に士官がめちゃめちゃ並んでいる壮大な写真で、こんなに士官が居たんですよ~という紹介。で、この練兵場って何処なんですか?と聞いたらこちらもはっきりしたことが分かっておらず、「関東近郊で、諸説ある」と。

若杉是俊関連展示

幼年学校から士官学校まで非常に優秀な成績を収めていたにも関わらず、最期は特攻で散った。小さな展示だが、とてつもなく展示の意味が大きい展示。

西南戦争の従軍手記

2F奥にひっそりと展示されていたが、めちゃめちゃ貴重じゃないのコレ。聞いたら「乃木将軍の掛け軸の次ぐらいには古いんじゃないか」と言っていたけど、掛け軸より古そうな気もしたり…(熊本鎮台歩兵第14連隊長心得)。これも次回訪問時にちゃんと年次を確認したいな。

その他参考

展示品を過去撮影したと思われるサイトがあったので、リンクを貼っておく。参考まで。

http://cb1100f.b10.coreserver.jp/ikou_kantou4.html